家族や自分のごはんを作ることは日常で、面倒とは思えど、大変とまではいかない。当たり前になっているから、誰もほめてはくれない。でも、頑張っていることは事実で……。そんなモヤモヤを抱えていませんか? 有賀薫さんが行き着いた、ほめられたいという気持ちとの向き合い方。

おいしさは分かち合えるもの?

 料理を作って誰かに出したら、もちろん「おいしいね」と思ってほしいし、言ってほしい。家族や好きな人のために作る食事だったらなおさらだ。

 でも、実際にはうまくいかないことのほうが多い。

 料理本やネットで見たおいしそうな料理を作ってみる。いい感じにできた! と気持ちが上がる。もちろん相手も喜んでくれるだろうと自信満々で食卓に出したのに……あれ?

 あんまり嬉しそうじゃないし、箸もなかなか進まない。子どもなんか、もっと正直で「おいしくない!」と見向きもしない。やっぱり少しショックだし、その料理は自分の中では永遠に封印されてしまう。

 ……と、まるで他人の話のように書いたのだけれど、これ実は、わが家のこと。夫は食にはとても保守的だ。ちょっと変わった食材や調味料が料理に使われるのを嫌がる。

 ゴーヤはあの苦味も含めて怪獣だと思っているし、アボカドも果物なのか野菜なのかはっきりしてほしいらしい。モツァレラチーズもパクチーも、私がもりもり食べるのを遠巻きに見ているだけ。

 つい先日も、ごぼうと鶏肉を使って洋風のクリームスープを作ったら「ごぼうは普通に和風の味つけがいいな」と言われたばかりだ。

気づいてほしかったこの気持ち

 一生懸命作ったものが喜ばれない。その一方で、できあいの調味料を使ってチャチャッと作った料理を「これはおいしいね!」と顔を輝かせてほめられることもある。

 なぜか悔しくて、どうしてそれをおいしいって言うの!?と、ほめられたいのかほめられたくないのだか、我ながらめんどくさい人になってしまう。

 この、もやもやした気持ちは長く自分の中で、解決できない存在だった。

 けれど最近、スープのイベントを開くようになって、多くの人が自分のスープをなごやかに食べてくれるのを見ているうちに、ふと思った。

 やっぱり人は、自分のおいしいと思うものをみんなと一緒に共有したい、そんな願望がある。

 私の心のもやもやは、料理が余ってしまってもったいないとか、作った時間が無駄になったということではない。自分が感じた料理のおいしさを、共有できなかった寂しさだ。そして、それが作る人にとってどれほど重要なことかを理解してくれない相手に、腹を立てていた。

 そう、私は「おいしさ」をわかってほしかったのではなく、「おいしさを分かち合えなくて寂しかった自分」をわかってほしかったのだ。

ほめられるより大事なこと

 どんな人にも、やっぱりどこかに、ほめられたいという気持ちがあるものではないだろうか。だから、一度ほめられると同じ行動を繰り返してしまうし、ほめられないと続けたくなくなる。

 「夫や子どもが食べてくれないメニューや食材は、出すのをやめてしまう」という話もよく聞くが、そういうことなんだろうなと思う。家族の「いいね」が欲しいという気持ちは、それだけみんな強い。

 でも、暮らしの中で必要なことを考えたとき、家族に喜ばれ、ほめられる食事ばかり出していればいいのかと言えば、そんなことはない。それはたぶん、作っている自分自身が一番よくわかっているはずだ。

 家族の健康を思えば嫌いな野菜だって食べさせたいし、添加物など食の安全にも気を使いたいし、塩分や糖分も控えたい。日々のごはんだから経済的なことも考えなきゃならない。子どもの好き嫌いが多いからと言って、好物ばかり作っていたら、限りなくメニューは偏ってしまう。

 毎日ほめられないごはんを作っている人は、おいしいねと言われるごはんを作るよりも、ずっと大切なことをやっている。本当にほめられるべきは、そこなんだと思う。

 

ほめられないままに続けること

 ごはんを日々作る人たちにとって、本来の食事は、作りやすさを優先しながら、家族のお腹をそこそこ満たし、ある程度栄養がとれれば良いはずだ。

 野菜がいっぱい入った毎日の味噌汁が、家族に不評で…とこぼしていた人がいた。煮干しや、何なら顆粒だしやだしパックでとっただしに、じゃがいもやキャベツやたまねぎ、豆腐や、わかめ。

 疲れて仕事から帰って、それでもがんばって作っている味噌汁は、残念ながら食卓にのぼったとき「すごい!」「おいしい!」と大絶賛されることはないだろう。

 でも、野菜やあたたかい汁物をたっぷり食べさせたいという気持ちは、食べる人の意識の底にゆっくりと積もっていく。

 私も子どものころはそうだったけれど、そんなに毎日続けて食卓においしいものは並ばなかった。「あー、今日もひじきの煮ものか…」とちょっぴり失望しながら、それでも変わらず「いただきます」と箸を取り、黙々と食べて「ごちそうさま」と言う。

 その繰り返しの中に、安心できて、気取らず、食べ疲れない「うちのごはん」が自分の中に形づくられ、食の基盤になった。

 どんなに簡単な味噌汁だとしても、それを毎日作り続けることは、決して簡単なことではない。

 ごはんを作ってくれた母を、今となってはすごいなと思えるけれど、だからといって、毎日のように「おかあさんありがとう」「これおいしいね!」と言っていたかと言えば、そうではなかった。

 家庭の中に、自然にほめ合える環境ができているのは素晴らしいことだと思う。ただ、そうでないとしてもあまり気にしなくてもいいし、むしろ、なんの報酬もなしに毎日やっている自分を、ちゃんと自分でほめてあげてほしい。自分が家族を支えていることに、自信をもっていい。

 ほめられたい自分は認めながらも、ほめられないことを誇りに思う。そういうのが、いいのではないだろうか。